人生は不平等なものだ。人は皆法の下に平等な権利を持っている。
実際には、経済的に、身体的に、環境も人も同じ事は全くない。
多種多様な社会。他人と同じ出発点ではないし人と同じ才能はない。
同じ仕事をしても評価は違う。他より優れた仕事をしても、劣った仕事をしても、評価は違う。受け取り方もちがければ、望んでいる結果も違うのだからとうぜんである。
社会人となれば、他人の事で責任を問われ、怒鳴られ、辱められ、人の利益のために、汗をながす。自分が楽をして、収入を得るために、使われたり見栄などのために、使われ都合のいい様になめられる。
優れた仕事をしたとしても、会社や仲間にとって利益のある結果をもたらす仕事をしても、努力し貢献し実績をあげても成果の共有をしても、扱いがひどく卑劣な場合もある。
人に尽くしても、ボランティアではないのだから、決してなめられてはならない。その行動の末の結果が満足できなくても、腐ってもいけない。目を背けてはならない。
なぜなら、見返りを求めて人に尽くしたわけではないからだ。そして、気付いたのなら、見返りは求めて行動するべきである。なにも自分という存在を投げ捨てる事を誰も望んでいないから、自分を大切にすることだ。
一生懸命頑張り我慢して、自己成長のために必要と思って、大変な仕事に率先し取り組んだのは、将来の理想像のため。黙々と、まじめに、必死に、苦しくとも、大切なあの人のために、大きく成長しようと決めたのでしょう。
私がなんとかしなくてはならないと、責任を背負い、自分で決めた道だからこそ負けたくない。私は裏切らないと決めたのだ。
がんじがらめになっているのに自分をルールに縛り付け、気づかないまに振り返ると、無理をしていた結果がうつとなってしまっていた。そう無理をしていたのだ。
休まなかった
今思えば、発想の転換はできたはずだが、不器用でできなかった。
休む事をする。頑張らないをする。自分のことを大切にする。
自分も大切なのだと知る事。
たくさんの時間の犠牲はあったけれど、人生のうちの長い休みと思えばそれで良い、
自分でこれから選ぶ道は、正しい情報かどうか。
偏りのある情報か、情報発信者が導きたい答えは何か。
自分自身に得となる必要な情報か。
自分の物差しで測り、自分で見出した思考の方向は何に向かっているか。
客観的に観察して、よりよく生きるために、
この情報社会に正視眼で自分の選ぶ道を楽しく進んでいきたいと思うのである。